私刑とは法律に基づかず、特定集団による基準で施行される刑罰のことである。
俗称でリンチとも言うが、これはアメリカの独立戦争時代に反対派に対する圧制で悪名を馳せた、チャールズ・リンチに由来する。



今日、国会の証人喚問で永田議員が叩かれていた。
そう、文字通り叩かれていたのである。

僕はつねづね、この証人喚問というシロモノは名称を変えた『リンチ』なのではないかと思っている。

日本国憲法第62条では、国政調査権という名のもとで、議員は議案等の審査及びその他国政に関する調査のために証人を喚問し、その証言を求めることができるとしている。
さらに、議院証言法により宣誓を行った証人は、喚問中は真実を述べなければならず、嘘をついた場合は偽証罪で訴追される。

つまりこの証人喚問というものは、憲法に基づいた立派な法的措置であり、また議院証言法に則って国民に公開された刑罰であると言える。


けれどボクはあえて、それに真っ向から異を唱えたい。

民主国家では三権分立の原則に従い、相互に独立した司法・立法・行政の3機関に委ねられている。
しかし昨今では、この行政の場に司法が絡んできているのではないかと思う。

国会議員は諸問題に議員の進退が関わってくると、それを行政の場で追求・糾弾しようとする傾向がある。
この永田議員の偽メール問題しかり、ヒューザーにより耐震偽装問題しかり。

後者などは、明らかに司法に委ねるべき問題ではないだろうか。
それを捜査機関の一部のように、竜頭蛇尾のおしゃべりが舌の長さを競い合うようにふるまい、国民公開の名の下に、メディアを通じて罵詈雑言の嵐を吹きかける。
しかもその行為自体を含めて、互いに醜態を晒しているついう事実には目が向いていない。
そもそも、偽証罪を取り合うくらいなら、もとより適切な場所で適切な審判を下すべきだ。


上記の問題に加えて、日本のマスメディアの犯罪報道は、推定無罪にすべき被疑者・被告人を犯人視して報道することが多い。
これは、確実な証拠を無視しては逮捕できないこと、起訴便宜主義によって有罪を立証できる事件しか起訴しないことなど、捜査機関の判断と裁判所の判断が相互関係にあることが原因だ。

また、被疑者・被告人のプライバシーを暴くことで視聴者・読者の関心が高まりやすいこと、記者クラブ制度によってマスメディアは捜査機関の一部のように振舞っていること、警察の取調べなどの際に被告人に弁護士などの第三者がつかないため、警察発表が一方的に報道される傾向が強いことなども大きいと考えられる。

こういったマスメディア・リンチ的な思想・思考―嗜好と言い換えてもいい―は、是として国会の場でも行われている。

先のリクルート事件など、証人喚問とそれに順ずる宣誓が事件解決に繋がった場合もあることは確かだ。
しかし、過去の栄光がいつまでもこの『公的リンチ』を続ける理由に値するとは思わない。思ってはいけないのだ。


民主主義が民主主義たる所以は、それを批判する権利と強制する資格とが、法によって確立されている点にある。
言論の自由は権力者の暴走を阻止し、また、弱者への甲冑となる。

しかしそれは、あくまで建前であり、まかり間違えれば弱者への死刑台になり、権力者の壁になりかねない。
その端的な例が、昨今における行政の振る舞いだとボクは思う。



「国会議員らしく」
岩國哲人委員長が理事会終了後にもらした言葉である。

「政治家とは、それほどえらいものかね。私たちは社会の生産になんら寄与しているわけではない。市民が納める税金を、公正にかつ効率よく再分配するという任務を託されて、給料をもらってそれに従事するだけの存在だ。私たちはよく言って社会機構の寄生虫でしかないのさ。それがえらそうにみえるのは、宣伝の効果としての錯覚にすぎんよ」
ジョアン・レベロのもらした言葉である。