前回の続きだけど今回は真面目に書こうと思う
そもそも人間の心とはどういうものなのか。フロイト的に分類するならば意識と無意識になる。いやいや、そもそもそんな分類が必要なのだろうか。
前回述べた心は脳の物理的な活動の範疇について言えば、たぶんコレが正解なのだろう。脳内で行われる、シナプスとニューロンの電離的反応でしかないのだろう。
では人間とはなんなのか。甲殻機動隊の言葉を借りるのなら、それは個性と多様性を内包した集積体となる。現代の科学において、未だ生命という属性は定義づけることができないでいるのが現状だ
ならば、もしそれを機械が行えるとすれば、ここに人間と機械の境界はあるのだろうか、否、両者を同一と考えて何か不都合が生じるのだろうか。
アメリカの有名な科学雑誌『ネイチャー』によると、人間の精神回路を物理化することは既に常識になっている。外見上も内面的にも人間と変わらない人工生命対の生産はすでに実用範囲で完成していて、残るはコストの折り合いだけらしい。
こうなってくると、ますます人間と機械の境界は薄れてくる。むしろ模造品でありがゆえに、実物よりも実態があり、本物よりも本物らしくなる。なぜなら、「こうだろうな」「こうだったらいいな」という完成品としての人間をモチーフにしている分、そこには人間にある劣悪な構造分子が初めから視野に入っていない
さて、これをお読みになられる方々はおそらくここで、「なら人間の尊厳はどうなるのだ」と疑問に思うだろう。だが、人間と等価値の人工生命体が存在することで、何か不都合があるのだろうか。それは何か悪いことなのだろうか。
生命を生み出すのは神様の特権とまで言われ、倫理的観念から忌避されてきた生命の人工的生産。いったい誰がこれを禁止したのだろうか。いったい誰がこの行為を否定できるのだろうか。有機物を無機物で表現する行為は賞賛されるものであって卑下されるべきものではない。
そもそも、家畜を有利的に改造することとどこが違うと言うのか。豚に改造された猪は人間に寄生することで、一生命体としての価値を向上させ、そのシェアを飛躍的に伸ばした。これは進化といっても過言ではない。
生きるための糧、好きなことができる環境、死ぬことに脅えることのない寝床。我々が力を求めるにあたって「それは本当に必要なのか」と振り返るべきことはいくつもある。ならば、三度顧みるべきだろう。自分たちの醜悪な構造原理を――
ボクは別にメールの相手が機械であろうと嫌がりはしない。大好きな小説の作者が無機物でも読むことをやめない。ボクは困らない、むしろ歓迎するだろう。だって相手は機械的であっても誰よりも人間的なのだから
対人関係におけるコミュニケーションの原点は、「自分が相手と同様の考えをもつ」というところから始まる。それはまるで、鏡に映った自分に話しかけるようでもある。
そういった揶揄的表現を用いることを是とするなら、むしろこの状況は望むべきものではないのだろうか。誰しも、鏡に映った自分をより美しいものにしようと自分を飾り立て、磨き上げ、研ぎ澄まし、鋭敏にし、ワイズに、クールに、キュートに、ビューティフルにしようと尽力してやまない。だが、もしもそこに、あらかじめ用意された〝完璧〟が映っているとしたら、何者にも変えがたい〝超絶〟が用意されているとしたら、誰も敵わない〝最強〟がいるとしたら、果たして他人が必要だろうか。ましてや自分は必要だろうか。
機械より下等な人間が、人間より人間らしい人工生命体とコミュニケーションをする。水面に映った月を掴もうとする猿は溺れるしかなく、鏡に映った完全な自分と会話する人間はやっぱり死ぬしかない。どこか滑稽で、それでいて艶美で、ネクロフィリア的なおぞましさすらある。
それでもボクは、ボクじゃないボクが欲しいと思う。ロットな言語しか生み出さないこのトラッシーな脳味噌を完膚なきまでに再現した、清漣な表現に組み替えた、ボクだけのカイゼルを切に望む。
なんともサイコでロジカルで、とびっきりチープな話だろうか。
猿もびっくりな戯言。
そもそも人間の心とはどういうものなのか。フロイト的に分類するならば意識と無意識になる。いやいや、そもそもそんな分類が必要なのだろうか。
前回述べた心は脳の物理的な活動の範疇について言えば、たぶんコレが正解なのだろう。脳内で行われる、シナプスとニューロンの電離的反応でしかないのだろう。
では人間とはなんなのか。甲殻機動隊の言葉を借りるのなら、それは個性と多様性を内包した集積体となる。現代の科学において、未だ生命という属性は定義づけることができないでいるのが現状だ
ならば、もしそれを機械が行えるとすれば、ここに人間と機械の境界はあるのだろうか、否、両者を同一と考えて何か不都合が生じるのだろうか。
アメリカの有名な科学雑誌『ネイチャー』によると、人間の精神回路を物理化することは既に常識になっている。外見上も内面的にも人間と変わらない人工生命対の生産はすでに実用範囲で完成していて、残るはコストの折り合いだけらしい。
こうなってくると、ますます人間と機械の境界は薄れてくる。むしろ模造品でありがゆえに、実物よりも実態があり、本物よりも本物らしくなる。なぜなら、「こうだろうな」「こうだったらいいな」という完成品としての人間をモチーフにしている分、そこには人間にある劣悪な構造分子が初めから視野に入っていない
さて、これをお読みになられる方々はおそらくここで、「なら人間の尊厳はどうなるのだ」と疑問に思うだろう。だが、人間と等価値の人工生命体が存在することで、何か不都合があるのだろうか。それは何か悪いことなのだろうか。
生命を生み出すのは神様の特権とまで言われ、倫理的観念から忌避されてきた生命の人工的生産。いったい誰がこれを禁止したのだろうか。いったい誰がこの行為を否定できるのだろうか。有機物を無機物で表現する行為は賞賛されるものであって卑下されるべきものではない。
そもそも、家畜を有利的に改造することとどこが違うと言うのか。豚に改造された猪は人間に寄生することで、一生命体としての価値を向上させ、そのシェアを飛躍的に伸ばした。これは進化といっても過言ではない。
生きるための糧、好きなことができる環境、死ぬことに脅えることのない寝床。我々が力を求めるにあたって「それは本当に必要なのか」と振り返るべきことはいくつもある。ならば、三度顧みるべきだろう。自分たちの醜悪な構造原理を――
ボクは別にメールの相手が機械であろうと嫌がりはしない。大好きな小説の作者が無機物でも読むことをやめない。ボクは困らない、むしろ歓迎するだろう。だって相手は機械的であっても誰よりも人間的なのだから
対人関係におけるコミュニケーションの原点は、「自分が相手と同様の考えをもつ」というところから始まる。それはまるで、鏡に映った自分に話しかけるようでもある。
そういった揶揄的表現を用いることを是とするなら、むしろこの状況は望むべきものではないのだろうか。誰しも、鏡に映った自分をより美しいものにしようと自分を飾り立て、磨き上げ、研ぎ澄まし、鋭敏にし、ワイズに、クールに、キュートに、ビューティフルにしようと尽力してやまない。だが、もしもそこに、あらかじめ用意された〝完璧〟が映っているとしたら、何者にも変えがたい〝超絶〟が用意されているとしたら、誰も敵わない〝最強〟がいるとしたら、果たして他人が必要だろうか。ましてや自分は必要だろうか。
機械より下等な人間が、人間より人間らしい人工生命体とコミュニケーションをする。水面に映った月を掴もうとする猿は溺れるしかなく、鏡に映った完全な自分と会話する人間はやっぱり死ぬしかない。どこか滑稽で、それでいて艶美で、ネクロフィリア的なおぞましさすらある。
それでもボクは、ボクじゃないボクが欲しいと思う。ロットな言語しか生み出さないこのトラッシーな脳味噌を完膚なきまでに再現した、清漣な表現に組み替えた、ボクだけのカイゼルを切に望む。
なんともサイコでロジカルで、とびっきりチープな話だろうか。
猿もびっくりな戯言。