2006年01月

生と死のエネルギーについて

生きていれば、必ず死ぬ。
たとえそれがどんな種族の生物であれ、死は須く平等に、そして必然的に訪れる。




ファンタジー小説のスタンダードである不老不死。
ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』に登場するヴァンピールはその代表例だろう。
生き血をすすることで若さを保つこの架空の生物は、不死身・不老不死という分野において絶大な人気を誇っている。

また他の例で言えばフェニックスなども有名だろう。
炎を糧に生き数百年に一度、自ら焼死し灰の中から蘇る架空の生物だ。
この場合は死んでも蘇るという意味であって、厳密には不死身とは異なる。

余談だが、推定年齢四百歳オーバーの亀仙人はこの不死鳥の血を飲んだことにより、不死の能力を手に入れている。


不老不死・不死身とは、突き詰めれば新陳代謝とそれに付随する再生能力、加えて環境に対する適応能力と免疫機構、これらが万全であれることだ。

けれども現実世界においてこの概念は存在し得ない。

老いなければ死なない。
一見すると筋の通った理論であるが、生物には生まれるに当たって死というものが前提条件として確立されている。

“アポトーシス” “セルラーセンセンス” “PCD” “オートファジー” “自食”――細胞が自発的に行う自殺の名称であるが、これらは全て遺伝子自体にプログラミングされていのだ。

仮死状態になることで劣悪な環境下でも生き残れるクマムシ。
同種の他の個体と融合することで生きながらえるゾウリムシ。
単細胞故の再生能力で細切れにされても分裂するプラナリア。
一度死んでも再び幼生となって同じ生を繰り返すベニクラゲ。

より現実的な不死を誇るこれらの生物だが、悪環境でも生き残れるという話であって決して死なないわけではなく、ましてや老いないわけもない。
ガン細胞でさえ栄養分なくしては死んでしまうのだ。

自動的にも他動的にも死なない細胞をつ生物など、どこまでも巨大化するばかりで終わりがない。
未来永劫衰えることのない成長を続ける細胞こそ正しくガン細胞だろう。
そもそも、それらの成長を支えるエネルギーをどこから捻出するのかという問題もある。


生きるという行為には莫大なエネルギーが必要だ。
それは上記の様な生物学的に必要とされるエネルギーはもちろんのこと、人と人とのつながりのなかで消費されるエネルギーだ。

「人は死に向かって生きている」
どこかで聞いた誰かの科白。

人の生が前提としての死に連立しているならば、ボクらは生というエネルギーを消費して死ぬのではなく、死というエネルギーを溜めた結果に死ぬのかもしれない。


膨大なエネルギーを消費する生だが、その対極である死もまた、尋常ならざるエネルギーを消費する。
それは上記の様な生物学的に必要とされるエネルギーはもちろんのこと、自ら臨む死によって消費されるエネルギーだ。

人は長くて百二十年生きる。
それを途中で終わらそうものならば、それこそ何年分もの生のエネルギーを消費しなければならない。

人を撲殺するには圧倒的な暴力が必要だ。
人を惨殺するには卓越した技術が必要だ。

自殺にしたってそれは変わらないだろう。

眼下に望む光景を目の前にして、容易く一歩を踏み出せる人はそういない。
裂いた手首から溢れる血を見て、零れる恐怖に打ち勝てる人はそういない。
密室に溜め込んだガスに揺られ、まどろむ意識に安堵する人はそういない。


生きていれば、必ず死ぬ。
逆説――
死ななければ、生きていない。

生ききれなくて、死ぬ。
逆説――
死にきれなくて、生きる。


自殺を考える人は弱い。
けれども、それを実行できる人は、きっと強いのだろう。

自殺を考えない人は強い。
けれどもそれは逆説、自殺できない弱さなのかもしれない。

そんなシニカルな戯言

依存について

【恋人】親しく思う相手。想い人。相思の間柄にある相手方。
(三省堂『大辞林第二版』より抜粋)

――――とまぁ、大辞林においてもこの程度にしか紹介されていない単語だけれど、その用途は上限を知らない。
性別を問わない人間同士はもちろんのこと、目的を考慮しないペット類の動物、酒やタバコといった嗜好品、繊細を謳った菓子類、仕事や趣味で用いる道具、長年愛用している部品、慣れ親しんだ娯楽、お気に入りの空間、ちょっと口には出せないゴニョゴニョな内容、果ては運命や死神といった超次元的な存在にも適用される。
さらにその目的ともなると、それぞれに枝分かれしつつネズミ算式に増え、統計を出すのもばかばかしく思えてくる。

そこには失われた本来の意味とは別に独善的であり、ある種の自虐的な意味合いが取れる。
物質を愛でることで希薄な恋愛感情や人間関係を補おうという、自己防衛にも似たロゴスが浸透しているのだ。

その他にも『恋に恋する』といった慣用句に代表されるように、自身の理想の異性と交際することで得られる充実感に恋をする場合や、流行の異性と付き合うことで優越感に浸るという形もしばしば見て取れる。


さて、これらの事例を考察していく上で、考慮すべき二つのフラグがある。
つまりは必要か不必要か、ということだ。与奪と言い換えても差し支えないだろう。
『友達以上、恋人未満』なんてどっち付かずの言い回しがあるように、その本筋はいつだって不明瞭で不明朗だけれど、この本義は普遍的な定理として内在する。

物にしても人にしても、三次元にしても四次元にしても、対象物がなければどのような恋慕も形として成りえない。
けれども情熱を傾けるに値しなくなる、またはその暇を失うことで、さながら空き缶を放るが如く切り捨てる。
理由はどうであれ、自分が感情移入する対象が必要なのか不必要なのか、ということだ。


今日における恋愛にはこのような、ライトに独善的であり、ヘビーに自虐的な対象物に対する一方的な感情移入が顕著に現れているように思われる。
恋愛というものが特定の他者、あるいはこの場合における特定の物質に対して向けられる、独占的感情を前提として成り立っていることを考慮しても、だ。

本能に則った関係などが最大の例だろう。
心を置き去りにして、男女間の利害関係のみを恋愛というオブラートでロマンチックに包み込んでいる。

また、感情のベクトルが非生物に対するものなら尚更だろう。
反応も返答もなく、全ては脳内で行われる擬似恋愛。意地の悪い言い方をするならば自慰であり、自身に反射する憐愛だ。


無限とさえ言える恋愛様式があるように、どれが正しくてどれが間違っているのか、などという論議は意味を成さない。
パトスに沿って個別の解釈は可能だけれど、根源を解明することはできない。
古代ギリシアの哲学者プラトンは人の外見ではなく、精神に惹かれる愛の美しさを説いたが、結局は自身が掲げた美のイデアの矛盾に苛まされる結果となった。


プラトニックな恋愛もエゴスティックな憐愛も、独善的な偏愛も自虐的な変愛も、その全てを総括して『レンアイ』と言うのなら、『コイビト』とはどんなモノなのだろうか。



話は変わるが、依存という病気がることを知っているだろうか。
近年においてはこの疾患を伴う対象が幅広く定義され、それらに対応した診療も数多く設けられている。
薬物依存やアルコールといった認知度の高いものから、ギャンブル依存、ネット中毒、携帯電話依存、カフェイン中毒、ニコチン中毒、ワーカーホリック、買い物依存……などなど際限を知らない。

これらの中に対人依存というものがある。
分類上はネット中毒や携帯依存と同じ〝コミュニケーション依存〟といって差し支えないが、異なる点はアクションに対するリアクションを求める点だろう。
巷では飼い主がいないと死んでしまう兎にちなんで、『ウサギ症候群』などと呼ばれている。

この患者の特徴として、依存物にたいする執着が人一倍激しいという点が上げられる。
依存する対象に取り入るためには自身を省みず、対称が望むあらゆる要求を受け入れる。
そして依存対象に拒絶したとき、どこかの誰かのところへふらふらと寄り、また同じことを繰り返すことになる。
最悪のケースとして、対象物を獲得できないと生きるための糧を失い自ら命を絶つ。

ピーターパンシンドロームやシンデレラ症候群と同じく、『コイビト』『レンアイ』という〝概念〟を誰よりも強く望むが故に、恋愛というロジックに誰よりも深くはまりこんでいると言える。
それは「私を見て」「私を助けて」といったクライシスコール的な現象ではなく、感情のベクトルが依存物への一方通行なのだ。

自身を蔑ろにしてまで誰かに愛を傾け愛を求める。
ピュアといえばピュアだが、病気には変わりない。
そもそも、知り合って間もない他人に対して全幅の信頼を寄せ得ることが病気と言える。


信じるとは依存しているということに他ならない。
信じているとは裏切られてもいいということ、捨てられても後悔しないということ。
絶対の信用のもとに、選択の全てを投げ出し、相手の全てを受け入れるということ。

けれども、依存するということは裏切られてもいいと思うことではない。
誰かにすがって生きる人にとって、切り捨てられることは死に直結しかねない。
『信頼=依存=裏切り』という図式は成立するようでしていないのだ。

そこには絶対的な矛盾を含んだ微妙でごく自然な調和がある。
それは依存という境界例の必然でもあり、偶然の産物でもある。



恋愛様式は多種多様に、それこそ人の数だけ存在するけれど、恋愛における世界の軌範は何故だか、対象が人間というだけで美化の限りを尽くされている。
けれど突きつければ所詮物欲でしかない。
男は恋人という存在に対して保護という行為を求め、女は恋人に救済を求める場合が否応にして多い。
性別が逆になる場合もあるだろうけれど、おそらくこの比率は変わらないだろう。
けれど僕は思う。「誰かを守りたい」「自分だけのものにしたい」「自分を見捨てないで」と思うことは、自己陶酔を前提にした相手への侮辱に他ならないのではないだろうか。
相手が自分と同じ立場で、同じ考えを抱いているなどとは思うだけで侮蔑に値する。

でも、『コイビト』とはそういうものなのかもしれない、とも思う。
誰かが自分を好きでいてくれる。
理由はどうであれ、そのかけがえのない事実はとてもとても嬉しいものだ。
必要か不必要か、与えるか奪うか。
『レンアイ』において成り立つこの図式は、恋人においても成立している。
誰かに好きだという気持ちを与えてもらい、それが嬉しくて、その嬉しい気持ちだけでその人を好きになれる。
嬉しい気持ちは心地好い。
だからそれがもっと欲しくて、その感情を奪いたくなる。



世界がそう簡単には変革しないように、このシニカルな関係もまた容易には壊れない。
歌の終わりを忘れてしまったように、僕らは世界を繰り返す。

必要だから好きになる。

好きだから必要になる。

嬉しくて好きになる。

好きだから嬉しくなる。

僕らは数千年も前から、ずっとずっと、ずっと病気なんだろう。

そんな戯言。

一生について

世界保健機構の調査(2003年調べ)によると日本人の平均寿命は、男性で78歳、女性で85歳らしい。
これはモナコと同一結果であり、また、男女ともに世界一の数値をたたき出している。

なんだかんだで80歳近くまで生きられるということにボクは驚いた。


〝80年〟というと、なんとも果てしなく長い時間のように感じられるけれど、「人生は苦手なことを克服するために時間を費やすほど長くはない」なんて言葉があるくらいには短くて、それでもやっぱり体感するには気が遠くなるほど長い時間であって、結果論的にしか「短い人生だったなぁ」なんて言えないだろうと思う。

けれども、こいつを具体的な数字にしてみるとどうだろうか。

80年を月にすると960ヶ月になる。
うん、一見するともっと果てしない数字になったけれど、これは月に5冊の小説を読むとして、一生で4800冊もの本を読める計算になる。

次にこれを日にしてみると29200日になる。
うーん、一見しなくても果てしない数字になったけれど、これは一日に3本のビデオを見るとして、一生で87600作品も鑑賞できる計算になる。

今度はこれを時間にしてみると700800時間になる。
ううーん、見てると眩暈のするような数字になったけれど、これは一時間に0.3km歩くとして、一生で210240kmもの距離を進む計算になる。

最後にこれを分にしてみると42048000分になる。
うむむ、もはやどうツッコんだらわからないくら天文学的な数字になったけれど、これは1分に1個ラ王を作るとして、42048000個ものカップメンができあがる計算になる。

当然だが、これら上記の数字がそのまま当てはまるわけではない。
0歳児に識字能力はないし、今と比べて幼少時の方が脈拍も多いはずだ。


でもでも、けれども――だ。

80年から現在までの年数を引いて58年。
そこから1日の必要睡眠時間の7.5時間分を引いて57年。
ここからなんかもー老後とか誤差とか色々減らして、分かりやすく余命50年。

余命〝50年〟

これは今から死ぬまでに〝3000冊〟の本を読める計算だ。
とてもじゃないけれど、自分の興味分野だけで補える冊数ではない。
歴代の名作を遡っても追いつかないかもしれない。

これは今から死ぬまでに〝54750本〟のビデオを見れる計算だ。
こんな本数のビデオは、TU○AYAだって収まりきらないだろう。
死ぬ頃には眼鏡の変わりに天体望遠鏡を目に貼り付けているかもしれない。

これは今から死ぬまでに〝131400km〟の距離を進む計算だ。
ふざけるな、地球を3週できるぞ。
ボクは亜光速かっ。

これは今から死ぬまでに〝26280000個〟のラ王が出来上がる計算だ。
たぶん辞書から餓死という言葉が消える。


生まれた時間まではわからないから割愛するけれど、ボクはすでに22年7ヶ月と3日を生きている。
余命に換算すると〝20957日〟であり〝502968時間〟であり〝30178080分〟であり〝1810684800秒〟だ。

そしてこの秒数は今をしてなお、刻一刻と減っていっている。

一生という時間は長いようで短く、やっぱり途方もなく長い時間だけれど、こうして数字として減っていくと、「ヘラヘラと笑っていていいものではないんじゃないかなぁ……」という気分になってくる。

いや、これこそお値段据え置きの戯言なのかもしれない。
けれども、カップメンはいいとしても――
ボクは先月、何冊の本を読んだだろうか。何か記憶に残るような映像メディアに触れえただろうか。一日どれほど歩いただろうか。

世界が克明に刻々と刻銘する時刻の中で、ボクは今、何を考えているのだろうか。

やらなければならない事なんて、この世にそういくつもあるとは思わない。
けれども、やってできることはそれこそゴマンとあるだろう。

このブログを書き始めてからすでに、30分――つまりは3600秒あまりが経過しようとしている


『命ってもんは、扱い方ひとつで黄金にもゴミにも化けやがる。 お宝にツバ吐いて台無しにするような真似だけは、絶対にするんじゃねえ』

そんなサモンナイト3のセリフに酔いつつも、今日もダラダラと生きてるボクはやっぱりクソ蟲だろう。

うん、戯言。

賀正

あけましておめでとうございます。

今年は年明けをバイト先で過ごし、年始をバイトで過ごすという、未だかつてない道化っぷりです('A`)

振り返ってみると去年は、まともなことは何一つしてないと思う。

そんなこんなで今年一年、きっとぐだぐだと生きながらえると思う。




もはや戯言以外のなにものでもない気がするけど――

今年もひとつ宜しくm(_ _)m
livedoor プロフィール
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ