生きていれば、必ず死ぬ。
たとえそれがどんな種族の生物であれ、死は須く平等に、そして必然的に訪れる。
ファンタジー小説のスタンダードである不老不死。
ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』に登場するヴァンピールはその代表例だろう。
生き血をすすることで若さを保つこの架空の生物は、不死身・不老不死という分野において絶大な人気を誇っている。
また他の例で言えばフェニックスなども有名だろう。
炎を糧に生き数百年に一度、自ら焼死し灰の中から蘇る架空の生物だ。
この場合は死んでも蘇るという意味であって、厳密には不死身とは異なる。
余談だが、推定年齢四百歳オーバーの亀仙人はこの不死鳥の血を飲んだことにより、不死の能力を手に入れている。
不老不死・不死身とは、突き詰めれば新陳代謝とそれに付随する再生能力、加えて環境に対する適応能力と免疫機構、これらが万全であれることだ。
けれども現実世界においてこの概念は存在し得ない。
老いなければ死なない。
一見すると筋の通った理論であるが、生物には生まれるに当たって死というものが前提条件として確立されている。
“アポトーシス” “セルラーセンセンス” “PCD” “オートファジー” “自食”――細胞が自発的に行う自殺の名称であるが、これらは全て遺伝子自体にプログラミングされていのだ。
仮死状態になることで劣悪な環境下でも生き残れるクマムシ。
同種の他の個体と融合することで生きながらえるゾウリムシ。
単細胞故の再生能力で細切れにされても分裂するプラナリア。
一度死んでも再び幼生となって同じ生を繰り返すベニクラゲ。
より現実的な不死を誇るこれらの生物だが、悪環境でも生き残れるという話であって決して死なないわけではなく、ましてや老いないわけもない。
ガン細胞でさえ栄養分なくしては死んでしまうのだ。
自動的にも他動的にも死なない細胞をつ生物など、どこまでも巨大化するばかりで終わりがない。
未来永劫衰えることのない成長を続ける細胞こそ正しくガン細胞だろう。
そもそも、それらの成長を支えるエネルギーをどこから捻出するのかという問題もある。
生きるという行為には莫大なエネルギーが必要だ。
それは上記の様な生物学的に必要とされるエネルギーはもちろんのこと、人と人とのつながりのなかで消費されるエネルギーだ。
「人は死に向かって生きている」
どこかで聞いた誰かの科白。
人の生が前提としての死に連立しているならば、ボクらは生というエネルギーを消費して死ぬのではなく、死というエネルギーを溜めた結果に死ぬのかもしれない。
膨大なエネルギーを消費する生だが、その対極である死もまた、尋常ならざるエネルギーを消費する。
それは上記の様な生物学的に必要とされるエネルギーはもちろんのこと、自ら臨む死によって消費されるエネルギーだ。
人は長くて百二十年生きる。
それを途中で終わらそうものならば、それこそ何年分もの生のエネルギーを消費しなければならない。
人を撲殺するには圧倒的な暴力が必要だ。
人を惨殺するには卓越した技術が必要だ。
自殺にしたってそれは変わらないだろう。
眼下に望む光景を目の前にして、容易く一歩を踏み出せる人はそういない。
裂いた手首から溢れる血を見て、零れる恐怖に打ち勝てる人はそういない。
密室に溜め込んだガスに揺られ、まどろむ意識に安堵する人はそういない。
生きていれば、必ず死ぬ。
逆説――
死ななければ、生きていない。
生ききれなくて、死ぬ。
逆説――
死にきれなくて、生きる。
自殺を考える人は弱い。
けれども、それを実行できる人は、きっと強いのだろう。
自殺を考えない人は強い。
けれどもそれは逆説、自殺できない弱さなのかもしれない。
そんなシニカルな戯言
たとえそれがどんな種族の生物であれ、死は須く平等に、そして必然的に訪れる。
ファンタジー小説のスタンダードである不老不死。
ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』に登場するヴァンピールはその代表例だろう。
生き血をすすることで若さを保つこの架空の生物は、不死身・不老不死という分野において絶大な人気を誇っている。
また他の例で言えばフェニックスなども有名だろう。
炎を糧に生き数百年に一度、自ら焼死し灰の中から蘇る架空の生物だ。
この場合は死んでも蘇るという意味であって、厳密には不死身とは異なる。
余談だが、推定年齢四百歳オーバーの亀仙人はこの不死鳥の血を飲んだことにより、不死の能力を手に入れている。
不老不死・不死身とは、突き詰めれば新陳代謝とそれに付随する再生能力、加えて環境に対する適応能力と免疫機構、これらが万全であれることだ。
けれども現実世界においてこの概念は存在し得ない。
老いなければ死なない。
一見すると筋の通った理論であるが、生物には生まれるに当たって死というものが前提条件として確立されている。
“アポトーシス” “セルラーセンセンス” “PCD” “オートファジー” “自食”――細胞が自発的に行う自殺の名称であるが、これらは全て遺伝子自体にプログラミングされていのだ。
仮死状態になることで劣悪な環境下でも生き残れるクマムシ。
同種の他の個体と融合することで生きながらえるゾウリムシ。
単細胞故の再生能力で細切れにされても分裂するプラナリア。
一度死んでも再び幼生となって同じ生を繰り返すベニクラゲ。
より現実的な不死を誇るこれらの生物だが、悪環境でも生き残れるという話であって決して死なないわけではなく、ましてや老いないわけもない。
ガン細胞でさえ栄養分なくしては死んでしまうのだ。
自動的にも他動的にも死なない細胞をつ生物など、どこまでも巨大化するばかりで終わりがない。
未来永劫衰えることのない成長を続ける細胞こそ正しくガン細胞だろう。
そもそも、それらの成長を支えるエネルギーをどこから捻出するのかという問題もある。
生きるという行為には莫大なエネルギーが必要だ。
それは上記の様な生物学的に必要とされるエネルギーはもちろんのこと、人と人とのつながりのなかで消費されるエネルギーだ。
「人は死に向かって生きている」
どこかで聞いた誰かの科白。
人の生が前提としての死に連立しているならば、ボクらは生というエネルギーを消費して死ぬのではなく、死というエネルギーを溜めた結果に死ぬのかもしれない。
膨大なエネルギーを消費する生だが、その対極である死もまた、尋常ならざるエネルギーを消費する。
それは上記の様な生物学的に必要とされるエネルギーはもちろんのこと、自ら臨む死によって消費されるエネルギーだ。
人は長くて百二十年生きる。
それを途中で終わらそうものならば、それこそ何年分もの生のエネルギーを消費しなければならない。
人を撲殺するには圧倒的な暴力が必要だ。
人を惨殺するには卓越した技術が必要だ。
自殺にしたってそれは変わらないだろう。
眼下に望む光景を目の前にして、容易く一歩を踏み出せる人はそういない。
裂いた手首から溢れる血を見て、零れる恐怖に打ち勝てる人はそういない。
密室に溜め込んだガスに揺られ、まどろむ意識に安堵する人はそういない。
生きていれば、必ず死ぬ。
逆説――
死ななければ、生きていない。
生ききれなくて、死ぬ。
逆説――
死にきれなくて、生きる。
自殺を考える人は弱い。
けれども、それを実行できる人は、きっと強いのだろう。
自殺を考えない人は強い。
けれどもそれは逆説、自殺できない弱さなのかもしれない。
そんなシニカルな戯言